湖の底に。

ホロスコープまじえて、日々のひとりごとを連ねてゆきます。

ほんとうのことをみつめたい。

日々流れてくる色んなニュース。



今日、生き抜くことが精一杯の生活では無い。

考える《余裕がある》から、この生活がある。



信じられない事がたくさん毎日の中で、そこら中で起きていて、色んな人達から色んな形で切り取られて、人から人へと拡散して伝わっていく。



自分に辿り着いた1つの情報を、そのまま鵜呑みにするのか、真偽を確かめるのか、直接確認するのか、自分で体験しにいくのか、受け取り方は様々なんだと思う。



これは、一種の癖や習慣なのかもしれないけれど、その時、瞬間的に受け取った一部の情報だけで、瞬間的なジャッジは自分の中で起きる。


どんな情報であっても。



でも、それは切り取り方ひとつで、印象も変われば、事実と違った勘違いや捻れを生む可能性もある。




伝える元が人間である以上、語り手の《フィルター》が薄くともかかる。と、思っている。



けど、それを事実に近い形で、できるだけ真実をそのまま伝えられるような努力はできないのだろうかと、ニュースを見ていると、思ってしまう。


正直、何を見ても、何を読んでも、《それ、本当?》って、思ってしまうから、情報を咀嚼するまでに少し時間がかかる。


何かの不利益、圧力、そういうものが関係した時に、情報が捻じ曲げられて拡散されるのは、なんだかモヤモヤする。



全てが、捻じ曲げられて伝えているとは思わない、事実を伝え続ける人もいるのかもしれないけど。



なんで、こんな事を考えているかも解らないけれど。



自分達が正しいと思っている事が、本当に正しい事なのか。


その判断が、何かを不用意に傷付ける原因になっていないのか。



たまに、振り返りたいと思ってしまう。














私個人の考えとして、

『あまりにも』横暴で乱暴な人とは建設的な批判のもとに、やり合う事もあるのかもしれない。と、思っていて、ぶつかってでも戦うこともしなければならないのかもしれない。


でも、『あまりにも』の基準はあくまでも私の中の基準であるから、結局曖昧なもので、エゴなのかなとも思う。


あくまでも対等な関係の中でお互いが建設的な批判でやり合うなら、それは一対一だから個人的には良いと思っている。あくまでも対等にやり合うなら。







けど、第三者からみて建設的でない批判は意外とそこら中に散らばっている気がしてならない。



たとえば、複数人での批判。これは、建設的では無いと思う。組織ぐるみだともっと厄介だし。この辺は、本当に色んなパターンや悪習慣もあるだろうなと思っている。




子ども社会でも大人社会でも、どんなグループの中でも似たような事は起きる。



一般的に『いじめ』『嫌がらせ』は、少なからず何かしらの批判がきっかけになっている気がしてならない。


いや、それだけじゃないとは思うけど。





例えば、今日のシェアした記事の《養子の男の子》彼は、養子であるということだけで、いじめに合ったわけで、それが、人とは違うからいじめられたのか、事の発端は当事者達しか解らないだろうけど、この子にいじめられる理由は本来よく考えればひとつもない。



例えば、殺人を起こした人の子どもが《人を殺した人の子ども》という理由だけで、いじめを受けたり社会に受け入れて貰えずにいるのなら、それは不当だと思ってしまう。その子自身には何も罪はないし、疎外感を感じて生きる理由も本来は無いはずなのに。



私が思うのは、その人を見る時に、背景ごと《その人だ》と、判断する事は、とても危うい事なんじゃ無いかと思っている。


そういうことの、積み重ねが、捻れに捻れて絡まった、手のつけようの無いものに変化していっている気がしてならない。



ただ、当たり前のように続けてきた事は、突然変わらない。瞬時の判断が、どこで誰を傷つけているかなんて、その時には気付けないのかも。残酷だけど。



難しいけど、少しでも


ほんとうのこと


を、見つめていきたい。