読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

湖の底に。

ホロスコープ、タロット、日々のひとりごとを連ねてゆきます。

辿ってきたみち。


石井ゆかりさんの本を読んで、自分の選択を辿ってみたら、色んな分岐点があったんだよな、と。



私は、我が家の長女としてこの世に生まれ落ちて、兵庫県の家で4歳頃まで過ごして、地元の幼稚園に入園した後に、おじいちゃんとおばあちゃんの家に引っ越して、同じ地区の小学校に入学。小学校の印象的な出来事と言えば、今でも覚えてるのは理科の授業。ソーラーパネルを使った車?を作るやつ。あれが好きでたまらなかった。あと、虫眼鏡で紙焦がすやつ。あれが私の『自分の好き』を見つけた最初じゃないかとおもう。


それから、理科の授業だけが好きすぎて、図書室で宇宙の本ばかり借りるようになって、休み時間は給食食べたら速攻で図書室に向かってた気がする。あの本のシリーズ、また読みたいな。望遠鏡で撮った宇宙の写真がたくさん載ってるシリーズ。高学年で、植物にも興味が出てきて栽培委員とかやってた気がする。理科の延長線だよね。畑先生見つけては色々聞いてたな。笑


その頃には、将来、天文学者になるんだ!!と、意気込んでいた気がする。本当に空ばっかりみてた。


小学校卒業後、そのまま校区の市立の中学校に入学し、当たり前のように部活を探して友達に誘われるがままにソフトテニス部の仮入部について行くことにして、コートまで来たのだが、コートの前では近所で仲よかった弟の友達のお姉さんが吹奏楽部の歓迎演奏でホルンを吹いていた。


友達に、少しだけこれみてから行くね。


と、告げて吹奏楽部の演奏を聴いた。


この選択が私の大きな分岐点だと思った。


演奏が終わってから、お姉さんから発見され『さやかーーー!あんたホルン吹きなさい!!』と、半ば強制的に吹奏楽部へ引きずり込まれる笑笑


なんにも、楽器も習った事もなく、特に音楽が好きだったわけでも無かった私が、突然ホルンを吹く事になった。


でも、ホルンと出逢って、音楽の楽しさを知ったし、アンサンブルの気持ち良さを知って、みんなでひとつの目標へ向かう達成感も知った。1度ハマると、それしか見えなくなる性格の私は中学3年間をホルンの為に全て使った。中学2年でソロコンテストで関西大会に行ったのは、運も重なり、過去最高の記録だった。


当たり前のように、地元の公立高等学校を受験し合格し、また吹奏楽部に入部した。


ここで出逢ったメンバーとは、本当に様々な経験を共にしたと思うし、そのあと十数年と続く時間の中を共に過ごした人達だ。私の大事な人達。


高校の歴史の中の節目の時期を私達は過ごして卒業後、私は音楽以外に勉強したいものが全く思い浮かばず、関西の音楽専門学校へ行く事に。my楽器を調達し、専門学校へ入学。


この2年で知った事は、自分の自立心の無さ。


自分で決めて、動く事の出来なさを強く思い知った。

好きで選び取ったはずの音楽で、私は漠然とした目標しか無かったのだ。ただ、好きなだけでやってきた8年間。楽器でご飯を食べて行く事の現実を知った。楽器でご飯を食べるという現実についてあまりにも無知であった。

社会勉強にしては、かかりすぎたお金。アメリカの研修もバンド経験も、私にとっては夢のような時間で、その時の事は今でも鮮明で、楽しくて楽しくて幸せで仕方なかった。


専門学校卒業後、社会人になるのに、私は就職活動もすることなくアルバイト、いわゆるフリーターをなんとなくすることになる。学校に不自由なく通わせてもらったのに、ちゃんとした仕事に就けず親に謝りたおしたが、母親はこういった。


「何も得なかった事は無いんでしょ?」

このひとことで、救われたと言うか泣いた。


その後、アルバイトを転々としつつ、夏限定で市内の中学生にホルンを教えに行ったりしていた。

何かしなければと、アロマセラピーの検定とアロマコーディネーターの資格を受講した。


それから、資格取得後、アロマのとあるショップにて契約社員で雇ってもらい、アロマクラフトの講師をやらせてもらって、その時のこともとても良い経験となった。


ちょうど、そのショップの頃に、『セラピスト』

というアロマ情報誌を毎号買っており、「アロマセラピー占星術:鏡リュウジ」というワードをセラピストの中に発見。


ん?と思い、読んでみるとアロマセラピー占星術が関係あること。そこから小学校の頃の記憶が蘇り、小学校の頃に星や宇宙や占いが好きだったことを思い出す。


まだそれは、とっかかりが生まれた程度で、そんなに深くは考えていなかったのだけど。


アロマショップを辞める頃、結婚を考え始めており、好きな事はやめて、お金を貯める、稼ぐ事にシフトするようになった。


それが携帯業界に最初に入った理由。


けど、結婚の話は思わぬ事件で泡となり笑笑


また、別のアロマショップへ入社。


その時に、アロマと陰陽五行思想との関わりや、チャクラやタロットカードとの関わりについて色々と深める事ができた。

そして、ここでの大きな出来事は、師匠と出逢ったことだろう。


この頃、アロマより占星術やタロットカードや陰陽五行思想アーユルヴェーダなどを勉強する事の方が多くなっていて師匠と逢ってはニッチな話で盛り上がってばかりいた。


その頃、家の事もあり不安定な中で過ごしていたけれど、少しずつ人生の主導権を自分へ持っていくことを始めた頃でもあったなぁと。


師匠との出逢いで視野があり得ないほど広がった。


これが25歳頃までのわたし。

ほんとうのことをみつめたい。

日々流れてくる色んなニュース。



今日、生き抜くことが精一杯の生活では無い。

考える《余裕がある》から、この生活がある。



信じられない事がたくさん毎日の中で、そこら中で起きていて、色んな人達から色んな形で切り取られて、人から人へと拡散して伝わっていく。



自分に辿り着いた1つの情報を、そのまま鵜呑みにするのか、真偽を確かめるのか、直接確認するのか、自分で体験しにいくのか、受け取り方は様々なんだと思う。



これは、一種の癖や習慣なのかもしれないけれど、その時、瞬間的に受け取った一部の情報だけで、瞬間的なジャッジは自分の中で起きる。


どんな情報であっても。



でも、それは切り取り方ひとつで、印象も変われば、事実と違った勘違いや捻れを生む可能性もある。




伝える元が人間である以上、語り手の《フィルター》が薄くともかかる。と、思っている。



けど、それを事実に近い形で、できるだけ真実をそのまま伝えられるような努力はできないのだろうかと、ニュースを見ていると、思ってしまう。


正直、何を見ても、何を読んでも、《それ、本当?》って、思ってしまうから、情報を咀嚼するまでに少し時間がかかる。


何かの不利益、圧力、そういうものが関係した時に、情報が捻じ曲げられて拡散されるのは、なんだかモヤモヤする。



全てが、捻じ曲げられて伝えているとは思わない、事実を伝え続ける人もいるのかもしれないけど。



なんで、こんな事を考えているかも解らないけれど。



自分達が正しいと思っている事が、本当に正しい事なのか。


その判断が、何かを不用意に傷付ける原因になっていないのか。



たまに、振り返りたいと思ってしまう。














私個人の考えとして、

『あまりにも』横暴で乱暴な人とは建設的な批判のもとに、やり合う事もあるのかもしれない。と、思っていて、ぶつかってでも戦うこともしなければならないのかもしれない。


でも、『あまりにも』の基準はあくまでも私の中の基準であるから、結局曖昧なもので、エゴなのかなとも思う。


あくまでも対等な関係の中でお互いが建設的な批判でやり合うなら、それは一対一だから個人的には良いと思っている。あくまでも対等にやり合うなら。







けど、第三者からみて建設的でない批判は意外とそこら中に散らばっている気がしてならない。



たとえば、複数人での批判。これは、建設的では無いと思う。組織ぐるみだともっと厄介だし。この辺は、本当に色んなパターンや悪習慣もあるだろうなと思っている。




子ども社会でも大人社会でも、どんなグループの中でも似たような事は起きる。



一般的に『いじめ』『嫌がらせ』は、少なからず何かしらの批判がきっかけになっている気がしてならない。


いや、それだけじゃないとは思うけど。





例えば、今日のシェアした記事の《養子の男の子》彼は、養子であるということだけで、いじめに合ったわけで、それが、人とは違うからいじめられたのか、事の発端は当事者達しか解らないだろうけど、この子にいじめられる理由は本来よく考えればひとつもない。



例えば、殺人を起こした人の子どもが《人を殺した人の子ども》という理由だけで、いじめを受けたり社会に受け入れて貰えずにいるのなら、それは不当だと思ってしまう。その子自身には何も罪はないし、疎外感を感じて生きる理由も本来は無いはずなのに。



私が思うのは、その人を見る時に、背景ごと《その人だ》と、判断する事は、とても危うい事なんじゃ無いかと思っている。


そういうことの、積み重ねが、捻れに捻れて絡まった、手のつけようの無いものに変化していっている気がしてならない。



ただ、当たり前のように続けてきた事は、突然変わらない。瞬時の判断が、どこで誰を傷つけているかなんて、その時には気付けないのかも。残酷だけど。



難しいけど、少しでも


ほんとうのこと


を、見つめていきたい。

余白

私は、こういうものです。

と、相手に伝える時、

これまでの自分の経験で

積んできたものに基づいて

自分という人間を紹介する。



ぱっ、と思いつくのは

名前、出身地、年齢、趣味、仕事など。


誰に対してかでも、

どれを伝えるかは変わるのかな。




でも、自分から何も情報を

相手に与えなかったとしたら

私という人間は、どのように映るだろうか。


ユナイテッド航空の一件で、

少しそういう事を考えた。



ある人は「女だな」って思うかもしれない

ある人は「アジア人だ」って思うかもしれない

ある人は「お母さんくらいの年齢の人」って思うかもしれない


でも、それは目に見える外観から入る情報に基づいた判断であって、声だけなら、声のトーンや言語で判断するかもしれないし、見えない、聴こえない人なら握手した感触をもとに相手を判断するかもしれない。



その人が、何をして、どういう生き方や環境のもとで育ち、どんな思想をもって、どんな経験をしてきたかなんて、1度だけの、ひとつの情報では、全て解らない。



どれだけ悪と感じるものも

どれだけ正しいと感じるものも

どれだけ嫌だと思うものも


見る人が変われば、

入る情報量が変われば、

判断が反転すらする可能性は充分にある。



どんな人にも

どんなものにも


全てに背景と歴史があって

辿ってきた道があるわけだ。



自分にだって受け付けないほど生理的に厳しいものは、どうしてもある。



けれど、一度きりの

その瞬間的な情報量だけでは

判断してしまわないようには、

常々気を付けているつもり。



それに意味はあるのかと

聞かれると、何故そうするかは

自分も解らない。


けど、

瞬間的な情報量で

物事を判断や切り捨てる行為を

しなければ、余白が生まれるわけで


そういう化けるかもしれない余白は


常々作りたいなと思っているから



そういう風に生きていたい。

ただ、そこにいること。

人の評価なんて気にしたところで、何にもならない事は、わかっているから、そんな事を考える暇があるなら、もっと建設的なことを実行したい。


結果が全て。

うだうだ考えても何も動かない。


誰にも怒られていないし

誰にも責められていない


だから余計に考える。


なぜ、ピックアップされたのかを考えたら、全くなぜなのか解らない。未だに解らない。


爆発的な事は、何も起こせないし、大きな恩恵もつくりだせない。


真面目で飯は食えない。


その事くらい、よくわかっている。


だから、いたたまれなくなる。たまにね。


こつこつ、やり続ける事はできるけど、

真面目だけじゃ、利益は生まれない。


その、一部になり損なっていることが、いたたまれない。


だから、他に何にも持たないから

努力し続ける事をやめたら、

それこそ何もなくなるよ笑笑


笑顔でいること

頑張り続けることは

悪いことでは決して無いけど


これだけでは利益はうまれない。


やりたい事もできて、

視野が広がって、

丁度いいくらいの

流れが整ってきている。


ただ、私にとっては

貢献できずに

そこにいる事は、

わたしにとって、

かなりいたたまれない事態だ。

魚座の日蝕に思うこと

f:id:plutoreborn:20170226163017j:plain


############

普段は無かった事にしていること

普段は見ないようにしていた気持ち

普段は見られたくない感情


人にはそれぞれ隠したい物を

晒したくないものを

抱えて暮らしてるんだよな。


いくら「無理だ」と非難されても、

己の中に炎が少しでも燃えているなら、

自分の納得いくところまで

どれだけカッコ悪くてもいいから

やってみればいいと思う。


カッコ悪くて

晒したところからしか

見えないものもある。


自分の中に、

「今より先にある未来」へ

の、可能性を感じられるなら

その可能性を感じなくなるまで

戦ってみても良いんじゃないかな。


「これより先に行ったことない!」

と、もがいて喚いてる人が、

先に進めるようになるまで、

寄り添えるような「情熱」が、

自分の中に感じられるなら、

納得いくまで頑張れるとおもう。


自分が潰れるような

人間関係は、

あまり肯定できないけど。


けど、頑張ってみたいなら

それも愛なのかなと、

なんとなく思ったのです。


いろんな人の

いろんなカタチ。

愛って難しい。

魚座の日蝕に思うこと



############

普段は無かった事にしていること

普段は見ないようにしていた気持ち

普段は見られたくない感情


人にはそれぞれ隠したい物を

晒したくないものを

抱えて暮らしてるんだよな。


いくら「無理だ」と非難されても、

己の中に炎が少しでも燃えているなら、

自分の納得いくところまで

どれだけカッコ悪くてもいいから

やってみればいいと思う。


カッコ悪くて

晒したところからしか

見えないものもある。


自分の中に、

「今より先にある未来」へ

の、可能性を感じられるなら

その可能性を感じなくなるまで

戦ってみても良いんじゃないかな。


「これより先に行ったことない!」

と、もがいて喚いてる人が、

先に進めるようになるまで、

寄り添えるような「情熱」が、

自分の中に感じられるなら、

納得いくまで頑張れるとおもう。


自分が潰れるような

人間関係は、

あまり肯定できないけど。


けど、頑張ってみたいなら

それも愛なのかなと、

なんとなく思ったのです。


いろんな人の

いろんなカタチ。

愛って難しい。

学んだこと。

7年ぶりの食べて祈って恋をしてを見て思った。


2010年に見たときは、結構タイムリーに色んなものを失ったり、周りが見えなくなって、自分も見えなくなっていたから、この映画が沁みた。



けど、今日もう一度じっくり見た時に、7年前には感じなかった感情と思いがジンワリと浮かんだ。



あの時の私は、恋に盲目的で、自分すら見失っていたし、自分の感情ばかりで埋め尽くされていて、「裏切られた」「選ばれなかった」「もう信用できない」「バランスが崩れる事は生きづらい」「失うくらいなら好きにならない」とか、とにかく、あの結果の中に間違いなく私にも至らない点は多々あった。


責めて、批判して、周りに賛同を巻き込んで、そんな事をしても自分が救われる事なんて無かったのに、あの時は、そうするしか方法も無かった。



それから、同じ失敗をする事は、無かったけれど、その時の自分や、関わった人達を許せるまでに6年かかった。


もう、大丈夫。

と、思えるまでには、何度も黒い気持ちに苛まれたり、「また裏切られるのでは?」「私の気持ちが変わるのでは?」「バランスを崩して、また自分を見失ってしまうのでは?」


私にとって、恋とか愛とか、そういう気持ちは無くてはならないもの。


でも、それ自体は余りにも曖昧で、間違えると恐ろしい想いすらしてしまうような危険も孕んでいるわけで。


それでも、やっぱり、やめられない。



私も、リズが言ったように

恋や愛とか、そういうことで

自分の中の心の調和を崩すことが

堪らなく怖くなって、

「またあんな想いをするのでは」


と、結局のところ、

喜びより、その向こう側にある

いずれ何かしらのカタチで訪れる

「別れ」の方に意識が

いってしまったんだな。


老師クティがリズに言った


「愛のために調和を失うことは、調和のある生き方の一部なんだよ。」


なんだか、この言葉が

わたしはグッサリきちゃったな。


私はもう前から決まってる

再度この言葉で気付いたのは、

7年前に、ズタボロになった想いは

今の私の中では、とうに癒えていて


ちゃんと、新しい想いが

私の中に育っていて、

うまくいえないけれど、

私らしいカタチで、

自分の喜びをちゃんと

把握して、抱きしめる事が

できているんだなと、

幸せだなと、

思ったのでした。


怖い。

怖くても、必ず

自分が勇気を出して

信じた先には必ず、

答えは見つかる。


正しいかなんて

誰にも決められないよ。